カテゴリ:看病日記( 27 )


2008年 02月 05日

もういいから早く帰り

ママンはわたしを含めて他人に迷惑を掛けるのが嫌いである。見舞いに行ってよくいわれたのは「もういいから早く帰り」。自分のせいで相手に面倒を掛けるのを嫌う人だ。

正月ママンはずっと入院していた。わたしの趣味は読書なので、別に病室に本を大量に持ち込んで横についていてもよかったのだけど、ママンは「来なくていい」といった。

なので、わたしは行かなかった。その間に一度だけ、ママンから電話が掛かってきた。わたしが何をしているか聞くだけの会話だった。やはり寂しいのだろうか。いってもいいよといったら「来なくていい」といわれた。

結局いかなかった。それが今では後悔のひとつだ。わたしは無理にでもいくべきだった。なぜなら今年こそがママンと過ごせた最期の正月だから。ママンの気遣いに甘えていた自分の甘さに苦い想いをかみしめる。

そのママン。連日に渡る薬の投与がきいてきたのか、体調がいくぶんかマシになってきた。主治医によると検査の結果、炎症が落ち着いてきたとのこと。大きく口を開けて苦しそうにしていた呼吸も今ではとても静かになっている。

今までは薄目しか開けられなかった目も、呼び掛ければかなり大きく開く。まだしゃべるだけの体力はないようだが、こちらの声ははっきりと通っているようで、肯定や否定くらいなら返せるようになっている。

「このまま回復するんでしょうか」主治医に聞いた。「うーん。病気を乗り越えるのは最終的に自分の体力だからね。本人にそれがあるかどうかだね」まだまだ安心はできない。そういうことか。

もってあと数日といわれた状態からよくここまで持ち直したものだ。主治医曰く「子供さんが毎日きているから本人にいい刺激を与えているんですよ」。精神論の類かもしれない。それでもわたしがいることに意味があるとするならば、わたしは毎日通おう。

家族の顔を見ることで病状が回復するのなら、わたしは自分の不義理をなじる。ママンの帰っていい。来なくていい。それを踏み越えるべきだった。もっとママンに語り掛けるべきだった。そうすればママンの病状はまだマシだったかもしれない。

意識をかなり取り戻したママン。それでも落ち込んだ体力はすぐに戻らない。彼女はありったけの体力をかき集めて、わたしにいった。わたしへの、目覚めて最初の言葉を。

「もういいから早く帰り」

それがわたしへの第一声。ああ。ママンあなたは変わりないね。それだけ弱っても、わたしのことを想うなんて。それはとても、あなたらしい。涙が出るほどに。
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by netnetnet_78 | 2008-02-05 22:03 | 看病日記 | Comments(8)
2008年 02月 03日

痛みは最悪の暴君

ベッドにやせ細った体を横たえるママン。その眉間が険しくなり、うう、ううとうめき声が漏れる。やがて声は大きくなり「いたいいたい」と主張する。弱々しい声を張り上げて哀しい声色をないまぜて。

わたしは手をとり、その手をさする。顔に手をあて、声をかける。大丈夫だよ大丈夫だよ。ただただ祈るだけ。ママンが子供のころのわたしにそうしてくれたように。やがてママンの声は小さくなる。眉間のしわはなくなり、安らかな顔に戻る。

ネットによると「さする」という行動には鎮静の効果が科学的にあるそうだ。さすられることによって触覚を通過する痛覚が減少し、それが信頼している人だとさらに脳内の物質の関係で痛みが減るらしい。

確かに看護師さんがさするよりも、わたしがさするほうがママンには効果があるように見える。わたしの手で安心してくれるなら、何百回でも何千回でも何万回でもさするよ。あなたがそれを喜んでくれるのなら。

それでも、そう。
そんな民間療法では越えられないものが確かにある。

土曜日。ママンの声はいつもより大きかった。「いぃたぁいい、いぃたぁいい」いつにもまして悲痛な声だった。それはうめきというよりも嘆き。

わたしはいつものように声を掛けながらさすった。ありったけの祈りと想いを込めて。それでもママンの声はおさまらない。満足に動かせないはずの体を左右に揺らしながら、荒い息と同時に痛みを吐き出す。

ああママン。わたしには何もできないよ。
看護師さんは鎮痛剤の投与の指示を仰ぐため、病室を飛び出て医師を探しに行く。

その日はたまたま痛みが治まったのだろうか。医師が到着する前に突然ママンが静かになり、そのまま寝息を立てて事なきを得た。その晩も夜通し眠っていたようで、夜番の看護師さんが「特に何もなかった」と報告してくれた。

ホッとしたのもつかの間、ママンが再び痛みを訴える。また声を掛けながらさすってみるが効果がない。もうママンの痛みはそのレベルではないのだろう。でも、わたしにはこれしかできないんだ。

看護師さんがいった。「うめくのにも体力が必要なんです」衰えた状態でこれだけうめく。嘆く。それはどれほどの痛みなんだ。「その体力を病状の回復だけに使えるように温存させてあげたいんですが」

落ち着かないママンを見かねて、看護師さんが鎮痛剤を持ってきた。おそらく前もって準備をしていたのだろう。フェンタニル。麻薬系の強力な鎮痛剤。Wikipediaによるとモルヒネの200倍の効果があるらしい。

薬が点滴のチューブを通り、ママンの体へと侵入していく。ママンの顔は安らかになり、うめき声が消える。痛みのとれたママンは瞳を閉じ、再び眠りについた。

激痛に苦しむママンを見ながら思った。今ママンは生きることに価値を見いだせるのだろうか。死んだほうがマシなんじゃないだろうか。鎮痛剤と鎮静剤と抗生物質を打ち込まれ、生きながらえるママンの姿は痛々しい。泣きたくなるほどに。

苦しむママン。無力なわたし。一日ごとに増える投薬。延々と続くスパイラル。それを終わらせるのが「死」以外の何かであってほしい。
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by netnetnet_78 | 2008-02-03 22:20 | 看病日記 | Comments(2)
2008年 02月 02日

告知の境界

去年の8月。ママンが進行したガンを告知されたころ。オニミキ家ではある話し合いがおこなわれた。

それはママンの死後の話。たとえば年金解約の通知をどこに持っていくか。たとえば生命保険の申請をどこに持っていくか。など。これから死と戦う人間と死んで欲しくないと祈る人間が「死」を前提として会話をする。沈痛な話し合いだった。

そのなかに死後の連絡と葬式、納骨場所の話もあった。簡素をたっとび、人の、特にわたしの迷惑を嫌がるママンはこういった。「葬式は不要。骨は寺に。親族への通知は葬儀を終えてからでいい」

ママンは3男2女の末っ子。長女が鬼籍に入っているので存命しているのは兄が3名。1人とは家が近所であるため、それなりに行き交いがあるのだが、他の2名とはあまりつきあいはなく、ほとんど弔事でしか出会わない。

近所の叔父には入院時の保証人や、わたしがママンを病院に連れて行けないときの代替要員として動いてもらったため、ママンの状態は知っている。他の二人には知らせていなかった。ママンの意向だから。

そのまま時は流れ、今週の月曜日1月28日が訪れる。「もう助かりません」。主治医の言葉を聞き、わたしはふたつのことを決意した。ママンとの時間を大切にしよう。親戚への通知は本当にこれでいいのかを確認しよう。そのふたつを。

それを聞く以上、ママンには余命宣告をしなければならない。その覚悟を決めた。わたしは水曜日あたりにいうつもりだった。そして「兄たちにはいわなくていいのか」と確認しようと決めていた。

その矢先、ママンは倒れた。

ママンが前後不覚になり、わたしには宿題が残された。ママンの兄へ通告するのかしないのか。通告するなら今か死後か葬儀後か。

兄たちと仲が悪いわけではない。あまり他人に自分の状況を説明したがる人ではなく、他人に迷惑を掛けたくないという人である。おそらくはひっそりと消えたいのだろう。見送る人の数に価値を見出す人でもない。

風変わりな考え方でも、わたしにはママンの考えは読めすぎるほどに読める。伊達にママンとの同居時間イコール年齢ではない。わたしの性格にも似たところが多分にあるので。さらにわたし自身も他の叔父たちとはママン以上に付き合いがないので、ぶっちゃけるとどっちでもいい。

どうするべきか。一日ほど考えて決断した。
通告。近所の叔父さんに連絡をお願いした。

兄弟の立場に立って考えた。幼少期を一緒に過ごした妹の死を葬儀後に聞かされて、どう思うのだろうか。彼らはママンの死に向き合う必要がある。死後ではなく生前に、やがて訪れる未来の予告を知る権利くらいあるはずだ。

連絡を受けて二人の兄が病室を訪れた。彼らは病室のママンを見て絶句した。痩せたママン。点滴を何本も打たれるママン。意識を失ったママン。

彼らの表情に哀しみと寂しさが浮かんだ。めったに会わないだけにママンの容貌の落差の印象はわたし以上だろう。

どんな心境が去来したのか。わたしにはわからない。幼少期のママンを知る人間だけが持つモノクロの世界を、わたしは知らない。

弱々しいママンの姿に心を痛める二人を見て、思った。ああママン。この人たちを呼んでよかったよ。あなたを想ってくれている人たちが他にもいた。

人の死。その予告は聞いた人間の心に穴を開ける。叔父たちも突然あいた大きな穴にとまどい言葉を失っていた。2人に8月からの経緯を説明し「何かありましたら連絡いたします」と伝えた。

叔父たちは今日うがたれた穴を埋め、やがて訪れる未来を受け入れるまでどれくらいの時間を必要とするだろうか。1日? 2日? 3日?

今日でつきそい3日目が終わる。ああママン。わたしの心に開いた大きな大きな穴はまだ埋まりそうにないよ。
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by netnetnet_78 | 2008-02-02 22:58 | 看病日記 | Comments(5)
2008年 02月 01日

幕間狂言

今日は落ち着いた日だった。今週初めてのことだ。熱が38度出ていたので、なるべく睡眠薬を使ってもらった。高熱は常人でもツラい以上、それはやむをえない処置だった。

帰るころには平熱に下がっていた。治療の関係で睡眠薬を数時間だけ切った。昨日のように叫び治療を拒否する態度は改まっていた。衰弱したのか落ち着いたのか。後者であると祈りたい。

主治医も睡眠薬は極力使わないほうがいいという判断をしているようで、不要ならなくすようにしたいな、という話をして今日は帰った。

書こうと思えば思ったことはいくらでもあるので、いつものようにシリアスに書けるのだけど、今回は、今回「だけ」はちょっと趣向を変えてみよう。ケジメの日記である。宣言ともいうが。

実はここ数日の話。。。





ドッキリなんです!!!










ウソです。ノーカン。ごめんなさい。石は投げないでください。
本当の本当に実話です。信じて。

遊べる日記はしばらくはこれで最後。なのでちょっとドッキリネタを使って遊んでみました。悪ふざけが過ぎましたね。今は反省しています。後悔はしていませんが。

日記のテイストが変わったという話をしたい。わたしの日常が激変したため、いきなり変わったことに驚いている人も多いだろう。というか、わたし自身も驚いている。事後処理ではあるが、ここで「日記のテイストをかえます」と断りたい。それがケジメである。

ご存じの通り、今ママンは死に瀕している。人間誰しも「自分を産んでくれた人を看取る」のは人生に一度だけである。そして、わたしはママンが好きである。

なので、死にゆくママンの最期を忘れないためにも、刻み込むためにも、心の整理するためにも、それを何かの形で記すのが一番いい。

個人的で鬱で悲観的な内容だから、本当はチラシの裏やローカルPCにこっそりメモするのもいいんだけど、それじゃあ散逸する可能性がある。ブログならその怖れはない。だからブログに書く。

個人的なことや暗い内容はあまり書かないようにしていた。それでも書くことにした。それはこういった事情である。

いつもの「頭の弱そうな記事」を期待しているかたには申し訳ないが、しばらくは上記の事情でこのような運用となる。

それともうひとつ。みなさんの温かいコメントをもらい、とても感謝している。なので、ここでもう少し書いておこう。

わたしは、そこまで追い詰められていないから、まだ大丈夫。
今のところは元気にやっている。

心に重いものがあるのは事実である。どうすればママンをよりよく見送れるか。してやれることはないか。その試行錯誤の毎日である。

とはいえ、ある程度はバランスをとりながらやっているので、日記の印象ほどはテンパっていない――はずである。

突然こんなシリアスな日記を書いて、閲覧者の皆様には驚いているかたもいるだろう。だから伝えなければならない。わたしは元気だよ、と。

説明は終わり。これで明日からまた看病日記に戻る。
お付き合いいただけるかたは、またお付き合いください。


実はこの記事、大幅にリライトしている。前の文はさすがにくだけすぎているなと感じたのでかなり固く書き直した。あれ? 内容が変わっている? と思っているかたは幸運なかた。

いつもの頭の弱そうな文章を本気で書き直すとこんな感じになる。前の文章を読み済みのかたは、印象の違いなどを味わってもらえるとありがたい。
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by netnetnet_78 | 2008-02-01 23:43 | 看病日記 | Comments(5)
2008年 01月 31日

痛みと想い出のトレードオフ

2時間しか寝ていない。眠いので午後10時に寝た。電話が鳴った。時計を見ると23時30分だった。相変わらず夜になると電話が鳴る。

「オニミキさんですか。お母さんが大声でうなされています。落ち着く様子がありませんので、睡眠薬を使ってよろしいでしょうか」

病院に行く必要はないとのことなので、OKを出して再び眠りについた。

起きてから病院に行った。睡眠薬の効果でこんこんと眠るママン。本人的には落ち着いているようだが、これでは体調が落ち着いても会話ができない。主治医にお願いして睡眠薬を解除してもらった。

そこで夜間担当の看護師が現れ、昨晩の報告をした。曰く「早く早くと廊下まで聞こえる声で叫び、触ると、何かトラウマでもあるんでしょうか、すごく嫌がり、そして、その」と言いよどむ。

「殺してくれと言っていました」

殺してくれ。何とも絶望的な言葉である。寝言にしては剣呑すぎる。何がママンをそこまで駆り立てたのか。何が彼女をそこまで追い詰めるのか。

睡眠薬が解けた。薄目を開けるママン。声を掛けても反応は薄く、少しだけ何かしゃべっても呂律が回らず言葉にならない。その表情のまま、ママンは手を伸ばす。震える手を。腕に突き立てられた点滴のチューブに。

引き継いだ昼担当の看護婦さんが不思議そうな顔で「何かを探しているんですかねー?」という。わたしも意味が分からない。

ママンは「もうへえ、もうへえ」「もうひぬ、もうひぬ」と気の抜けた声で何かを訴える。その言葉と行動が脳内で結びついた。

ママンは「治療はもういい。シンドいから死ぬ」と言いたいのだ。だから、自分の体に薬液を投与する点滴を抜こうとしている。

敗血症の症状にママンの心は折れかけている。ナーバスになり、ほんの少しのストレスで嫌々と大声で嘆く。体中に飛散した炎症による痛みは理性を浸食しているようだった。

わたしはママンの意識が戻り、会話ができることを祈って睡眠薬を止めてもらった。実際はママンに苦痛を与えただけだった。覚醒したママンは苦痛から眉間にしわを寄せ、幼い子供のようにみずからの不幸を言葉にならない言葉で嘆き続けた。これでは彼女を苦しめるだけだった。

ママンの神経過敏は看護師さんにも波及していて、床ずれをなおすためや、痛みを和らげようと触られるだけで「触るな!」と声を荒げる。非協力的な態度に看護師さんも仕事がやりにくそうだった。

そんなわけで、今日は何度か睡眠薬の再投与を打診された。そこが悩み所である。ここ数日は決断の連続だ。

睡眠薬の投与を再開すればママンは痛みを感じず、寝ているので看護師さんも仕事がやりやすい。とはいえ、睡眠薬を投与され続け、知らぬ間に死を迎える。そんなものは許容できない。わたしはママンと時間を共有するためにつきそっている。寝顔を見るためではない。だからエゴを通させてもらった。

「本人がかなりシンドいとき。あるいは体を何度も触る必要があるとき。それ以外はなるべく睡眠薬を使わないでください。わたしがいる間は」

正しいジャッジだったろうか。間違えてはいないだろうか。ママンは寝かせていたほうがいいのではないか。もう少し様子を見なければならない。

看護師さんはいった。「ご家族のかたがいるかどうか、それは患者さんにとって重要です。すごく違うんです」であるなら。わたしの存在を感じ取って欲しい。起きて、その目とその耳で。

寝ているか「やめてくれ」とうめいているママンにも、瞬間的に凪の状態が訪れる。起きているのか判然としないが、薄目が開いている気がしたので、今までの感謝の気持ちを伝えてみた。今までありがとうと。

伝わったのか伝わっていないのか聞こえたのか聞こえていないのか。ママンの反応は乏しくいまいち実感がわかない。ただ涙腺に涙が浮かんでいた。痛みではなく喜びの涙であって欲しい。

ママンが落ち着いているときは優しい言葉や感謝の気持ちを伝えようと思った。「言葉は喋れなくても耳はいつも聞こえています」と看護師さんはいっている。何度も何度も何度も何度も何度も言い続ければ、言葉のひとつくらいは届くだろう。何度も何度も何度も何度も何度も言い続ければ、想いのひとつくらいは届くだろう。

苦痛はあるけれど想い出のある余生と、苦痛も想い出もない余生。わたしは自分が「生きている」と判断できるほうを選択した。でも、本人は痛いの嫌なんだろうなー。
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by netnetnet_78 | 2008-01-31 23:33 | 看病日記 | Comments(7)
2008年 01月 30日

残された砂の量

まだ時間はある。やがて死ぬママンにも「やがて」に追いつくまでの時間が許されている。思い出を作るには充分じゃないか。

その希望をたった一本のベルがたたき壊す。時刻は0時30分。見知らぬ電話番号に眉をひそめながら通話した。

「病院です。お母さんが危ない状態にあります。すぐに来てください」

そんなバカな。主治医の話では助からないにしてもまだ数ヶ月はもつという話だったじゃないか。言葉を失うとは、このことだ。慌ただしく家を出る。運良く通りかかったタクシーを捕まえて病院にかけつけた。

結論からいえばママンは助かった。わたしが到着したころには危地を脱していた。一時、血圧が測れなくなるほどに低下したそうだ。

これですべてが終わっていれば、どれほど気楽だっただろう。終わらない。この症状は入り口に過ぎなかった。

ママンは病室でお腹が痛い、お腹が痛いと訴え続ける。それは意識的な行動ではなく、本能の行動。体をくの字に折り曲げ、うなされるようにつぶやく。意識はもうろうとしていて、会話できる状態ではない。

わたしは朝の4時近くまでつきそった。鎮痛剤の効果かうめき声はやんでも意識が回復しない。大声で呼び掛ければ「あー」とか「うー」とか答えるのがやっと。

それから家に帰り、2時間ほど寝て、出社前に病院により、それから職場に向かった。休むのも考慮したが、残務量が半日で片づく程度だったので午前だけ仕事をした。そして、昼からまた病院に向かう。

午前に検査をしていた主治医はこういった。「腸が炎症を起こし、それが原因で敗血症を起こしている可能性が高い」

敗血症――名前くらいは知っている。小説とかでたまに出てくるから。とても危険な病。人が死ぬほどに危険な病。病人がその病にかかる。それは絶望と意味が同じだ。

病室のママンはあいかわらず意識が混濁している。大きく開き、何かを求めるように動く口がママンの疲労を無言で訴える。

主治医は話を締めくくった。「ここ数日がヤマになる。乗り越える可能性もなくはないが、それはとても少ない」

なぜだ。ママンにはあと数ヶ月の時間があったじゃないか。その、たったひとつかみの時間すら取り上げられるのか。

瞳を閉じ、苦しそうにあえぐママンに、わたしは何をしてあげればいいんだ。握った手の感触は伝わっているのか。届けた言葉の数々は鼓膜に響いているのか。

看護婦さんがいった。「オニミキさんはお若いのに、ずっとつきそってすごいと思います。お母さんが前に入院したころ、オニミキさんをすごく信頼していて、すごく大切にしているとうかがいました」

その信頼に応えるだけの何かをわたしはできただろうか。できるだろうか。大切にしてくれた愛情にもたれていただけではないだろうか。

「もしものとき、必ずオニミキさんが見届けられるように、わたしたちはがんばります」

もしものとき。最期のとき。その言葉は重い現実となってのしかかる。ひとつの終末が迫る。少し先だったはずのものが眼前にある。

最期のときを看取る。それは当然の願望だ。しかし、ワガママを許されるのなら、あと一度だけでいいから言葉を交わしたい。それができるなら、最期のときを見とれなくても構わない。

主治医の先生に「もう助からない」といわれたのが月曜日。わたしは、その日からお別れの準備をしようと思った。何を伝えて何を訊いて何をするべきか。ゆっくりと積み上げながら最期の期間を過ごそうとした。

でも、実際はその前にママンの意識は不明になった。
伝えるべき言葉も訊くべき内容もとるべき行動もすべてが意味を失った。

だから、わたしは本当の意味で「最期の会話」をしていない。わたしのなかでママンとの別れの儀式はまだ終わっていない。というより、始まってすらいない。

後悔の念がずっと心によぎる。それは2つある。ひとつは火曜日に病院にいかなかったこと。ママンは火曜の夜中に重篤になった。火曜の業後なら言葉をかわせた。まだ時間はある。それは油断だ。

もうひとつは水曜日、今日の午前、会社にいったこと。いってはいけなかった。話によると昼前に意識を取り戻し、会話を交わせていたから。

千載一遇の午前を失った変わりに仕事は片づいた。上司に電話を入れて木・金の休みを取る。休日を入れて四日つきそう。一度くらいは意識を取り戻さないか。

今生の別れであるのなら。最期の会話であるのなら。一度だけ伝える機会をもらえないだろうか。今までありがとう。その一言だけでも。
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by netnetnet_78 | 2008-01-30 21:43 | 看病日記 | Comments(7)
2008年 01月 28日

それでも奇跡は起こらない

今日は会社でストレス検診があった。時間まで三国志大戦をしていると携帯がシャカシャカと鳴った。電話を出るとママンだった。

「しんどすぎる。ひとりじゃ病院にいけない」

ここ数週間ママンは布団で寝込んでいた。特にこの二日は落ち込みようがひどく、食事すら摂っていなかった。うーむ。まずいよね?

今日はママンは病院に行く日。なのでひとりでいけないのは困る。というわけで、会社目前でヘイ! タクシー! 家にとんぼ返り。ママンを連れて病院に連れて行ったわけ。タクのうんちゃんもすごかったけどね。手を挙げずに止まった。さすがプロ。

鎮痛剤をかなり強力な、麻薬系の薬に変えたので、それが体質にあわないのだろうか、と思っていた。それで動けなくなるくらいなら、前の薬でいいと医者にいうつもりだった。

甘いんだなー。甘いよ、オニミキ。

医者と話が終わり、とりあえず入院することになった。退室するわたしとママン。「あ、子供さんだけは残ってください」いや~んな感じ。である。

MRIの写真を見せられて説明を受ける。要約すると

「助かりません」

危ないという言葉は聞いていた。助かるかどうかわからないとも聞いていた。助かりません。その最終宣言を聞いたのはこれがはじめてだった。立ったまま聞いていたが、心理的にはよろめいた。

治療で進行が止まっていた病状が再進行し、行くところまで行ってしまったらしい。最近の体調不良はそれが原因である。口ぶりから推測すると「あと3~6ヶ月」といったところ。今年は越えないそうだ。

去年の8月ごろに覚悟は決めていた。助かる見込みはかなり薄いと知っていた。それでも治療で元気になった姿を見て助かる可能性をちらりと信じた。甘い。甘すぎる。現実はわたしに微笑まない。

今年一年もたないか。急展開すぎる。予想では今年は生きていると思った。死ぬとしても来年以降の話だと考えていた。それが今年の夏まで持ちそうにないという話とは。

部屋を出て待合室に座っているママンと合流する。「調子よくないやろ?」と訊かれた。真実を伝えるべきか。そこが難しいところ。気丈で強気な人だが、打たれ弱いのでね。ヘコまれても困る。

「うーん。ただの治療の経過報告だよ」と嘘をついた。聡い人なので嘘に気づいただろう。バレバレの嘘でもいい。今は真実を伝える覚悟がない。

年寄りは年寄りだろう。でも平均寿命にはほど遠い。死ぬには速すぎる。そもそもママンの人生を振り返る限り、あまりにも幸が薄すぎる。もっと人生を楽しんでから逝ってもらいたかった。

お前が今から親孝行すればいいだろう? そのとおり。まったくそのとおり。全力の肯定でそれに答えよう。でも、もう時間と同じくらいにママンには体力がない。何かをしてあげたくても何もできないのが現状だ。

親孝行したいときに親はなし。死ぬ前にすればいいんじゃね? とんでもない。慌てて親孝行をしたくても、それに答えるだけの体力を親は持っていない。

残された時間を使って何ができるか。それを考えよう。
みなさんも、親孝行のご利用は計画的に。
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by netnetnet_78 | 2008-01-28 21:30 | 看病日記 | Comments(8)