2008年 01月 30日

残された砂の量

まだ時間はある。やがて死ぬママンにも「やがて」に追いつくまでの時間が許されている。思い出を作るには充分じゃないか。

その希望をたった一本のベルがたたき壊す。時刻は0時30分。見知らぬ電話番号に眉をひそめながら通話した。

「病院です。お母さんが危ない状態にあります。すぐに来てください」

そんなバカな。主治医の話では助からないにしてもまだ数ヶ月はもつという話だったじゃないか。言葉を失うとは、このことだ。慌ただしく家を出る。運良く通りかかったタクシーを捕まえて病院にかけつけた。

結論からいえばママンは助かった。わたしが到着したころには危地を脱していた。一時、血圧が測れなくなるほどに低下したそうだ。

これですべてが終わっていれば、どれほど気楽だっただろう。終わらない。この症状は入り口に過ぎなかった。

ママンは病室でお腹が痛い、お腹が痛いと訴え続ける。それは意識的な行動ではなく、本能の行動。体をくの字に折り曲げ、うなされるようにつぶやく。意識はもうろうとしていて、会話できる状態ではない。

わたしは朝の4時近くまでつきそった。鎮痛剤の効果かうめき声はやんでも意識が回復しない。大声で呼び掛ければ「あー」とか「うー」とか答えるのがやっと。

それから家に帰り、2時間ほど寝て、出社前に病院により、それから職場に向かった。休むのも考慮したが、残務量が半日で片づく程度だったので午前だけ仕事をした。そして、昼からまた病院に向かう。

午前に検査をしていた主治医はこういった。「腸が炎症を起こし、それが原因で敗血症を起こしている可能性が高い」

敗血症――名前くらいは知っている。小説とかでたまに出てくるから。とても危険な病。人が死ぬほどに危険な病。病人がその病にかかる。それは絶望と意味が同じだ。

病室のママンはあいかわらず意識が混濁している。大きく開き、何かを求めるように動く口がママンの疲労を無言で訴える。

主治医は話を締めくくった。「ここ数日がヤマになる。乗り越える可能性もなくはないが、それはとても少ない」

なぜだ。ママンにはあと数ヶ月の時間があったじゃないか。その、たったひとつかみの時間すら取り上げられるのか。

瞳を閉じ、苦しそうにあえぐママンに、わたしは何をしてあげればいいんだ。握った手の感触は伝わっているのか。届けた言葉の数々は鼓膜に響いているのか。

看護婦さんがいった。「オニミキさんはお若いのに、ずっとつきそってすごいと思います。お母さんが前に入院したころ、オニミキさんをすごく信頼していて、すごく大切にしているとうかがいました」

その信頼に応えるだけの何かをわたしはできただろうか。できるだろうか。大切にしてくれた愛情にもたれていただけではないだろうか。

「もしものとき、必ずオニミキさんが見届けられるように、わたしたちはがんばります」

もしものとき。最期のとき。その言葉は重い現実となってのしかかる。ひとつの終末が迫る。少し先だったはずのものが眼前にある。

最期のときを看取る。それは当然の願望だ。しかし、ワガママを許されるのなら、あと一度だけでいいから言葉を交わしたい。それができるなら、最期のときを見とれなくても構わない。

主治医の先生に「もう助からない」といわれたのが月曜日。わたしは、その日からお別れの準備をしようと思った。何を伝えて何を訊いて何をするべきか。ゆっくりと積み上げながら最期の期間を過ごそうとした。

でも、実際はその前にママンの意識は不明になった。
伝えるべき言葉も訊くべき内容もとるべき行動もすべてが意味を失った。

だから、わたしは本当の意味で「最期の会話」をしていない。わたしのなかでママンとの別れの儀式はまだ終わっていない。というより、始まってすらいない。

後悔の念がずっと心によぎる。それは2つある。ひとつは火曜日に病院にいかなかったこと。ママンは火曜の夜中に重篤になった。火曜の業後なら言葉をかわせた。まだ時間はある。それは油断だ。

もうひとつは水曜日、今日の午前、会社にいったこと。いってはいけなかった。話によると昼前に意識を取り戻し、会話を交わせていたから。

千載一遇の午前を失った変わりに仕事は片づいた。上司に電話を入れて木・金の休みを取る。休日を入れて四日つきそう。一度くらいは意識を取り戻さないか。

今生の別れであるのなら。最期の会話であるのなら。一度だけ伝える機会をもらえないだろうか。今までありがとう。その一言だけでも。
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by netnetnet_78 | 2008-01-30 21:43 | 看病日記 | Comments(7)
Commented at 2008-01-30 22:15 x
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Commented by Tim at 2008-01-30 22:30 x
読んでる。
読んでるからな!
Commented at 2008-01-30 23:27 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2008-01-31 01:20 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2008-01-31 07:51 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2008-01-31 13:25 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by オニミキ at 2008-01-31 21:24 x
>All of you
こんなお騒がせエントリに温かいコメントをありがとうございます!
ちとヘヴィな毎日ですが、がんばります!
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